トップページ > 記事閲覧 
「天空の城ラピュタ」
投稿日 : 2003/03/15 16:19
投稿者 Excalibur
参照先
製作:徳間康快
プロデューサー:高畑勲
企画:山下辰巳/尾形英夫
原作・脚本:宮崎駿
音楽:久石譲
監督:宮崎駿
 
(声)
田中真弓/横沢啓子/初井言榮/寺田農/常田富士男
永井一郎/糸博/鷲尾真知子/神山卓三/安原義人
亀山助清/槐柳二/TARAKO 

1986年
記事編集 編集
「ある日、少女が空から降ってきた・・・」
投稿日 : 2003/03/15 16:22
投稿者 Excalibur
参照先
これがスタジオジブリの第一回作品。監督・宮崎駿としては『ルパン三世/カリオストロの城』『風の谷のナウシカ』に続く3本目。そしてこの作品を宮崎アニメの最高傑作に推す声も多い。
何を書くそう自分もその一人である。『未来少年コナン』や『カリオストロの城』から入った人には宮崎作品の集大成の趣きだろうし、やや遅れて『ナウシカ』あたりから接した自分にとっても一番すんなりくる世界である。コナンほど超人的ではないが大人顔負けの活躍を見せる少年パズーと、同じように王家の血筋に生まれながらクラリスよりか地に足のついた感が強い少女シータ、それにラピュタの財宝を狙う悪人たち(単純にお宝目当ての軍隊と、それを利用しつつ密かな陰謀を企むムスカ)と、結局は主人公たちを助けることになる憎めない海賊ドーラ一家が絡んでくるという冒険物語で、久石譲の音楽も前作より画面とのシンクロ度が高くなって映画としての完成度も高めている。<飛翔>――空を飛ぶことが宮崎作品の一つの特徴でもあるが、物語の展開に即した形で「飛ぶ」ことの魅力、そして怖さを味合わせてくれるのはこの作品が唯一だろう。『ナウシカ』に次ぐSF性(未来性)を期待していた人にはやや物足りないのかも知れないが、19世紀末と思しき舞台は、夢がまだ夢であり冒険が冒険として確立し得た幸福な時代。まだ世界規模の戦争もなくロマンを追い掛けていられた時代で、スウィフトの『ガリバー旅行記』からの引用も辛うじてリアリティを保てるギリギリの時だろう(宇宙にも人類が進出している現代社会においては、この設定で物語を描くのはかなり厳しい)。胸踊る「冒険活劇」かつ「漫画映画」という目標を満たすには充分魅力的な舞台装置だった。
またこの頃までの宮崎作品は、まだ観客に向き合っている部分が強く感じられた。見ている人を楽しませてやろう、という心意気とでも呼べる何か、そして余裕が。だがこれ以降は作者の趣味が剥き出しになる傾向が強くなり、またそれが世間一般に広く受け入れられるようになったことから、本来の趣向だったはずの「漫画映画」としての楽しさが薄れてきてしまっている。声優として、タレントや著名人の登用が目立ってきたのもマイナス。この『ラピュタ』でも初井言榮や寺田農といったアニメーションでは馴染みの薄い名前が並んではいるもののこれはピン・ポイントの起用であり、主役の二人をはじめとした他のキャストは所謂本職の声優で固めているからこそである。パターン化した声優の演技を嫌う気持もわからないでもないが、要はそれも個人の演技レベルの話であって一様に除外してしまうやり方はどうかと思う。近年の作品を見るにつけ、絵と音の乖離の激しさが惜しまれてならない。
ただこの映画にも欠点が全くないわけではない。名作モノに相応しい冒険少年的でありながら、意外に受身のパズーの行動もさることながら、一番残念なのは「天空の城」ラピュタのスケール感ではなかろうか。その広がり、大きさが今一つ伝わってこないのと、統一感が希薄なのはいただけない。パズーとシータが内部を巡るシーンではかなりの広さを感じさせるのだが、全景シーンやクライマックス・シーンでは案外こじんまりとした印象を与えてしまう。神話や伝説の時代に、天空にあって地上に君臨した帝国としては些か小さすぎるのではないか。またラスト・シーンでのパズー、シータとドーラ一家の再会と別れも忙しない。もう何シーンか挟むかあるいは時間経過をおいたあとならば、もう少し余韻に浸れていたのにと思えてならない。『ナウシカ』のエンド・クレジットのように。それでもなお、この作品が輝いているのは事実で、宮崎ブランドがすっかり定着している今、もっと再評価されて良い作品である。
記事編集 編集
件名 スレッドをトップへソート
名前
メールアドレス
URL
画像添付


暗証キー
画像認証 (右画像の数字を入力) 投稿キー
コメント





- WEB PATIO -